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日中平和友好条約締結35周年記念
2013-05-10 10:05:00   From:人民日報海外版.日中新聞日本語版557号   コメント:0 クリック:

「民間レベルで日中友好の更なる前進を」




■座談会出席者■
◇伊藤信男 特定非営利法人 日中倶楽部会長
◇鈴木英司 一般社団法人 日中青年交流協会理事長
◇栗原喜一郎 川口市日中友好協会理事長
◇王 懐 国際通産㈱代表取締役社長
 
 
 日本と中国には隣国として数千年にわたる交流の歴史がある。その中で過去に不幸な戦争の歴史はあったものの、日中国交正常化以降は比較的友好的な関係が維持されてきた。しかし、日中共同声明から40年を経た今日、尖閣諸島問題(中国名:釣魚島)を巡って危機的状況を呈している。今年は日中平和友好条約締結35周年を迎えた。今後、日中関係をどのように発展させていくべきか。それが今こそ問われている。そこで日中平和友好条約締結35周年記念「民間レベルで日中友好の更なる前進を」と題して日中友好交流の立役者4氏にこのほど座談会を行っていただいた。
 
日中関係を強固にするのは民間交流
どんなに波風荒れようとも初心貫徹を
 
 伊藤 2年前の11月1日に日中倶楽部を設立した。これまでさまざまな活動を展開してきた。1972年9月29日に日中が国交正常化し、昨年40周年の佳節を迎えた。この間、紆余曲折があったが、民間・地方レベルの国民交流で大きな成果を上げている。日中国交正常化40周年を経過し、国民の相互理解・信頼増幅が大いに図られたと考える。
 その成果として両国がフランクに言うべきことを言い、経済・文化・スポーツ・観光交流が大いに促進され、日中友好交流は大きく進展している。特に日中倶楽部では東日本大震災被災地支援のためにチャリティ歌謡ショーを行い、その中で日中の監修は共演して喜ばれた。音楽交流を行った。また、同じ会場で日中書道展を開催し、在日中国人書道家の作品を展示し、日中文化交流を行った。このほか上海や北京で日本の精品展を行い、経済交流に力を入れてきた。私は現在、障害者の自立支援を行っている。今後、日中の福祉交流も行う計画である。
 鈴木理事長は日中青年交流に尽力されておられるが、政治的にギクシャクしている中で、今後、日中青年交流をどのように進めていかれるのか。今後の方針と課題についてお聞かせください。
 鈴木 私どもの日中青年交流協会では1983年に第一回訪中団を派遣して以来、訪中は200回にも上る。この間の日中間の変化は皆さんご存知の通りだが、72年の日中国交正常化以降、日中関係は比較的良好に進展し、まさに成熟した状況だったと言えるのではないか。しかし、尖閣諸島問題で日中関係が悪化し、現在に至っているというのが実情だと思う。
 当協会では、この間、青年交流を通じて日中関係の深化を図ってきた。将来の日中関係を担うのは青年だからだ。特に、最近では植林活動を展開し、大変難しいといわれている砂漠化を防止し、緑化のために努力してきた。中国の現状を理解するためには、中国の地方や農村に足を運ばないと解らない。私たちは農村に行き、地元の農民や青年たちと共に汗を流し、植林活動を行ってきた。これは北京や上海では味わえないものであり、参加者の印象も大きい。こうした具体的な交流を通じて、国民間の相互理解を図ることが重要だ。
 私は、日中交流の一番の特徴は民間交流であり、両国関係を強固にするのは民間交流であると実感している。周恩来総理は「民によって官を促す」と断言しているが、現在の閉塞した両国の関係を打破するには民間交流をさらに深化させるしかない。価値観が多様化した現在では、さまざまな交流が想定される。それによって相手への認識を高め、人と人の理解、国と国の理解を深めていくことが重要だ。私どもは植林活動をベースにしてその一翼を担いたいと決意しているところだ。
 伊藤 私も訪中するたびに青年団体連合会や中日友好協会、または大学を訪問しては日中友好をテーマに語り合うことにしている。
 
留用生活でも中国人と友好関係を深化
3・11大震災で届いた一通のメール
 
 伊藤 栗原理事長は川口市の教育長を務められた。これまでの活動、また、今後の計画についてお聞きします。
 栗原 長い間、教育界に身を置いてきた。川口中学校で数学の教師として教鞭をとってきた。通常は歴史科とか社会科の先生が国際交流の働きかけを行うのが普通だが、数学の教師が国際交流に力を入れるというケースは多くはないようだ。小学校と中学校で教鞭をとった後に教育局で8年間にわたって学校管理関係の仕事をやり、その後、2期8年間にわたって教育長を務めた。この間、国際的な仕事にも携わり、中学生をオーストラリア、高校生をカナダに派遣する一方、教員の相互交換も進めてきた。
 教育長を退官してから坂本隆太郎さんに影響を受けて日中関係に携わるようになった。坂本さんは日本が敗戦のときに中国の共産軍に捕らわれて8年間帰国できなかった。この間、坂本さんは中国人と友好関係を上手に作り上げ、「日本に帰国しないで中国に残ってほしい」と懇願されるほど中国人に親しまれた。この坂本さんは昨年2月10日に逝去した。川口市日中友好協会の定期総会開催の前日だった。そこで関係者で坂本さんの追悼文章を書いて冥福を祈った。
 日中友好協会に入ったのは坂本さんの影響が大きい。坂本さんは生前、身体の不自由な奥様を車イスに乗せて散歩しているお姿を拝見し、大変感動した記憶がある。3、4年前にNHKの番組『留用された日本人』にも出演された。留用された代表的な日本人として番組に登場したのである。
 通常、日本人捕虜として捕まえたのなら、「抑留」という言葉で表現する。シベリアへ抑留された日本人捕虜は強制労働を強いられたと聞いている。しかし、坂本さんは「中国のために働いてくれた」ということで中国では「抑留」ではなく「留用」という言葉で表現された。
 このエピソードが中国に親しみを持つ大きなきっかけになった。尖閣諸島をめぐる問題で日中間がおもわしくないが、ある時、川口市日中友好協会会長の岡村幸四郎氏(川口市長)が新聞記者に囲まれ次のような質問を受けていた。
 「川口日中友好協会の事業計画はこのまま執行するのか、それとも中止するのか」との記者の質問に対して岡村会長は「計画通り実施する。我々の団体は民間団体であり、公的機関ではない。民間人同士は皆仲良くしている」と語った。
 また、岡村会長は「3・11の東日本大震災の時に、私のところに見舞いのメールを送ってくれたのは一人の中国人だった。個人と個人との付き合いが基本。民間団体の友好交流は国の問題とは関係なく、計画したすべての行事を実施すると、岡村会長は言ったと新聞報道されていた。その方針に則り、例えば小学生の親子を中国大使館に案内し、中国の小学生との交流を、例年と同じに実施した。
 
 
人材育ち「青年は明日の太陽だ」実感
ビジネス・植林交流や学校の寄贈に力
 
 伊藤 それでは次に王さんから。
 王 私は1987年に中国政府派遣ということで来日した。当時、私は中央官庁に所属していた。当時の主な仕事は周恩来総理の時に指定した日中友好16商社を通して、関連大手商社を通じて毎年2回にわたって大型中国政府買付代表団と一緒に日本から鋼材・設備等を日本から購入する日中経済活動を行っていた。
 中国は計画経済から市場経済に変り、国際通産株式会社は、それに対応するために日中両国の中央政府と地方政府及び数多くの企業、団体の協力を得て、日中間の幅広い分野のビジネス拡大、最新ビジネス情報の提供、両国間の新しい業務の展開、新商品の開発、プロジェクトの展開、商品販売並びに輸出入、日中両政府・民間企業間のビジネス促進、交流を拡大する趣旨で設立、日中間の民間経済交流に力を入れ始めていた。
 2000年の時に「国連」FAOが世界各国に学校給食、特に学乳の導入を進めることに対して、中国政府は積極的な対応を行い、学校給食と学乳先進国の日本政府と民間と交流するため、国際通産㈱を交流窓口と指定し、日本政府及び民間と日本の酪農乳業、学乳に関して盛んに交流を行うことになった。
 日本の酪農から乳製品生産までは大変素晴らしい経験があり、日中酪農乳業交流拡大に合わせ、中国の関連研修生も各都道府県に派遣し、日本の酪農乳業の実情を学んでいた。双方の交流を盛り上げるため、「日中酪農乳業交流協会実行委員会」まで作った。その中で日本政府と都道府県に協力して、日本産米の中国への輸出や日本産乳製品の中国への輸出、中国で日本の機械メーカーの設備を100%使って、日本乳製品企業、飲料企業の中国工場建設にも協力した。
 このほか国際通産㈱は、日中両国の航空産業や自動車産業の交流を発展させるためのさまざまな取り組みも行なった。また、埼玉県日中友好協会が中国で「日中緑化交流基金」を使って植林活動を行えることにも尽力し、日本の関連大学の大学生を中国に迎え入れ、植林交流を活発化した。
 日本と中国は何千年の交流の歴史の流れがある。その流れの中には山あり、谷ありだった。しかし、長い交流の歴史の中に中国人は日本人に対していろいろと特別な友誼と思いがある。
 鈴木  鈴木 私は北京外国語大学で1997年から2003年まで教鞭をとった。その時の教え子がいまや中国を牽引する立派な指導者になっている。その姿に接すると「青年は明日の太陽だ」という言葉が強く実感できる。そのためにも青年を育てることは重要だ。中国の青年が日本への理解を深まるよう努力することが極めて意義深い。民間組織が日中青年交流を盛んにすることである。それはどんなことがあっても継続することである。
 伊藤 一昨年、400人の青年訪中団を組織し、中国を訪問した。私の娘はその訪中団に加わり、行動を共にした。その訪中で中国は広大で中国人は人懐っこいという印象を強くした。北京・河南・四川の青年とは今でもメール交換を行うなど、親しく交流している。
 鈴木 青少年交流ではいろいろな交流があるが、ホームスティも交流をより深めるひとつの手段だ。民家に泊まり庶民の生活を経験することは、とても有意義なことだ。最近では、中国でもホームスティを受け入れる団体や地域もあるので、今後の目標としていきたい。
 栗原 私が過去にある村の小学校の校舎を見学したことがあるが、大変老朽化して酷い状態だった。2階建ての校舎だったが、2階の床は穴だらけ、屋根も隙間から太陽がのぞく状態だった。
 そこで帰国後、募金活動をやって2001年に新しい校舎を建設して寄贈した。この小学校の生徒は少数民族のミャオ族。校舎が完成し、校名を『松桃決基・川口友好小学』とされた。開校式に招待されたので、坂本隆太郎さんなど関係者と再びこの地を訪問した。 
 しかし、校舎は新しくなったが、机やイスはボロボロだった。そこで坂本さんが「これじゃ子供たちが可愛そうだ。寄付しなくては」と申し出て、130人ほどの生徒の机とイスが新しくなった。
 
 
金の橋は民衆の心を結ぶ交流で強固に
池田会長の「提言」が日中交流の源流
 
 伊藤 川口市は植木の産地。植木や花卉の日中交流も進んでいるようだが。
 王 2009年に北京で第7回中国花き博覧会が開催された。その時、国際通産㈱は日本側窓口に指定され、日本政府の協力を得て、日本花き関連団体と連携して展示会場最大の国際ブースを作り、各都道府県の代表的な素晴らしい日本産切り花、鉢植、盆栽、植木、プリザーブフラワー、押し花等々を展示した。同時に日本庭園を再現し、2週間の会期中に毎日20万人弱の入場者が押しかけた。中国の最高指導部と北京市政府から高く評価され、表彰された。
 伊藤 王さん、川口市は植木や花卉の産地であり、岡村市長は都市農業の活性化に力を入れているので、この分野での日中交流にも尽力してくださり、期待している。
 王 よく解りました。期待に応えられるよう努力します。
 鈴木 日本と中国は引越しのできない関係。仲良くするのは人間の知恵――国家対国家で言えば外交だ。中国が好きな人、嫌いな人さまざま。しかし、好き・嫌いではなく、必要かどうかで判断すべきだ。「WE NEED YOU」―日中は今や共同発展・共同利益を追求すべき時代に入ったと実感している。
 栗原 日本の漢字は中国から伝わってきた。その意味で文字や言葉を通じて理解し合うことが大切だ。川口市日中友好協会では中国語教室を開講している。本年度も10クラスで102人が中国語を週1回学んでいる。
 こうした取り組みは、川口市はかなり進んでいる。子供の頃から中国の言葉や文化に触れさせることで両国の壁を取り払えると確信している。その一環として夏休みに日中親子教室ということで、中国大使館に子供とその親を連れていき、中国大使館スタッフの親子と交流をするようにしている。最初はあまりスムーズでなかったが、大使館のコックさんが作ってくれたお菓子を一緒に食べると急速の親しくなり、雰囲気が和らぐから不思議だ。そのほか中国人の卓球の指導者を呼んで中学生に卓球を指導したり、中国の鋳物実習生にギョウザを作ってもらってギョウザパーティーを開いている。こいしたさまざまな取り組みで両国民の親近感が増していくものと確信している。
 王 このような時期だからこそ、日中両国間の民間友好交流とビジネスを盛んにしていかねばならない。いろいろな年齢層、いろいろな分野、特に国家の未来を背負う青年たちのビジネス交流に力を入れていきたい。5月に中国の富裕層を訪日させて、ビジネスを行う計画がある。日中両国がどのような事態になっても、民間交流は途絶えさせてはいけないと思っている。
 伊藤 私はかつて公明党の市議会議員だった。特に日中国交正常化の井戸を掘った創価学会の池田大作名誉会長を尊敬してきた。日中友好交流を語る時に池田名誉会長の存在なくして語ることができない。1968年9月に東京両国の日大講堂公で開催された創価学会の学生部総会で池田名誉会長(当時は会長)は「日中国交正常化提言」を行った。この提言こそが「日中交流」の源流であると考える。
 周恩来総理は逝去する1年前の1974年12月5日に池田名誉会長との会談が中国北京の305病院で行われた。周総理はすでに不治のガンに侵されていたが、万感の思いを込めて語った。
 「池田会長とは、どうしてもお会いしたいと思っていた。池田会長は中日両国民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことを私はとても嬉しい」と。
 1975年、日中国交正常化後、初めてとなる中国国費留学生6人を池田名誉会長自らが身元保証人となり、創価大学に受け入れた。その時、池田名誉会長は「周総理からお預かりした学生だから大切にしたい」と語っていたのが印象深い。
 本年4月、横浜で開催された『池田大作と中国展』では、「金の橋は民衆の心を結ぶ交流によってますます強固になる。金とはいかなる試練にも朽ちない象徴と言える。風が吹き、波が荒れようともこの橋が厳然としていれば政治、経済などのあらゆる往来を進めることができる」と述べられている。この言葉を肝に銘じて日中民間交流の更なる発展をライフワークとして取り組んでまいりたいと決意している。共に協力し合い、このテーマの実現を目指して頑張りましょう。本日はありがとうございました。
■プロフィール■
▽伊藤 信男                           
日中倶楽部会長             
川口市議会議員(4期16年)             
ひまわりグループ 代表              
(社)日中経済交流協会 相談役              
川口商工会議所 議員            
川口市北東ロータリークラブ 会長            
川口NPO法人連絡協議会 会長              
▽栗原喜一郎
 埼玉県退職校長会 会長
 全国連合退職校長会 常任理事
 埼玉県日本中国友好協会 副会長
 川口市日本中国友好協会 理事長
▽鈴木英司
 中華全国青年連合会の受入れにより初訪中。以降訪中歴は約200回。その後、6年間にわたって北京外国語大学で教鞭をとる。現在、一般社団法人日中青年交流協会理事長、北京市社会科学院日中関係研究センター客員研究員。
▽王懐
 中国中央省庁に勤め、仕事のため政府派遣で来日、日中ビジネス活動、主なのは政府間の買い付け業務を行ない、日本の関連会社などの要請により、いくつの日中合弁会社、中国現地の日本法人会社、工場を設立。その後、両国ビジネス拡大のため、各方面の協力を得て、日本「国際通産株式会社」を設立。以来、日中間の幅広い民間交流、貿易の促進・拡大に努めている。

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