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日本ライブ伝説(1)吉田拓郎と1970年代  野外へ放たれた叫び 田家秀樹
2016-10-05 15:17:52   From:日本経済新聞社   コメント:0 クリック:

時を超えて語り継がれるライブがある。意義や時代に残した足跡、その後の音楽シーンに与えた影響について、音楽評論家の田家秀樹さんが1970年代から振り返る。
「つま恋」のステージに立つ吉田拓郎=ソニー・ミュージックダイレクト提供
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「つま恋」のステージに立つ吉田拓郎=ソニー・ミュージックダイレクト提供

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 僕もみなさんも、よく生きて来られました――。

 吉田拓郎は、9月26日に千葉県・市川市文化会館で行われた2年ぶりのツアーの初日にそう言ってはにかんだように笑った。

 4月に70才の誕生日を迎えたばかり。“若者文化”の象徴的存在だった彼ならではの感慨もあったのだろう。歌いながら涙ぐむような場面もあった。

 70年代、日本の音楽シーンは劇的に変わった。

 その一つが“ライブ”である。従来の“リサイタル”“演奏会”に代わり“ライブ”や“フェス”“イベント”という言葉が使われるようになった。

 

プロ・アマ結集

 

 日本のコンサート史上、最初の野外イベントが、岐阜県中津川市の椛(はな)の湖畔で69年から始まった「全日本フォークジャンボリー」。同じ年にアメリカで行われ約40万人を集めたウッドストックより約1週間早い。

 高石ともやや高田渡らのフォークシンガーにアマチュアも参加、舞台もスタッフの手作りという素朴な祭り。1回目の観客約3千人、2回目、約8千人、伝説となった3回目は約2万5千人。岡林信康、はっぴいえんどらフォーク・ロック系のアーティストが勢揃いした中に初参加、デビュー2年目の吉田拓郎がいた。

 彼が出たのは、2カ所にあったサブステージの一つ。演奏中に電源が落ちてしまうトラブルにもかかわらず「人間なんて」を延々歌い続けたことで脚光を浴びた。その後、テレビ撮影などに反発、“商業主義粉砕”を叫ぶ教条主義的なフォークファンによりメインステージが占拠され、イベント自体が中断したまま終わってしまった。

 70年代の野外イベントのほろ苦い結末。74年8月に福島県郡山市の開成山公園陸上競技場で開かれた“ワンステップフェスティバル”は最たるものだ。

 

「つま恋」6万人

 

 主催は郡山のブティックのオーナー、佐藤三郎。研修旅行でアメリカに行った時に見た映画「ウッドストック」に感動、私財をなげうった1週間にわたるイベント。オノ・ヨーコや沢田研二、キャロル、サディスティック・ミカ・バンドら、国内外のロック系アーティストが集結。“街に緑を、若者に広場を”というスローガンは、今のテーマ型フェスの原型だろう。全員ノーギャラでありながら膨大な赤字を残して終わった。

 フォークもロックも市民権を持ち得なかった状況を変えたきっかけが吉田拓郎だった。彼の72年の「結婚しようよ」の大ヒットはメディアや業界の認識を変えた。「拓郎の歌を聴きたい」とコンサートを企画していた全国の学生が、今、イベンターと呼ばれる会社の創業者達だ。自前の照明や音響のスタッフとともに旅をしながら歌う“コンサートツアー”が始まった。

 テレビには相手にされずラジオの深夜放送とライブに支えられた活動。70年代に5枚のライブアルバムを出しているアリスは、74年に303本ものコンサートを行っている。

 75年8月、静岡県掛川市の「つま恋」多目的広場に約6万人を集めたオールナイトコンサート「拓郎・かぐや姫・コンサート・イン・つま恋」は、そんな時代の分水嶺となった。

 78年に岐阜県鈴蘭高原で野外イベントを行ったチューリップは、自分達を旅芸人一座に例えていた。76年日比谷野外音楽堂、77年日本武道館、78年には後楽園球場のステージに立った矢沢永吉はロックの伝道師のようだった。

 79年7月、拓郎が、愛知県篠島に約2万人を集めたオールナイトコンサートは前代未聞の野外離島ライブだった。

 拓郎は「生意気だ」とメディアから叩(たた)かれ、矢沢永吉は「危険だ」とツアーの会場拒否に遭っている。

 断絶の70年代だった。

 

 たけ・ひでき 1946年生まれ。雑誌編集者や放送作家を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、音楽番組DJと幅広く活動。吉田拓郎ら数多くのミュージシャンの取材を長年続ける。「読むJ-POP」など著書多数。

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