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「少林功夫(カンフー)は武術禅」 ② 少林寺方丈(管長・住職)釈永信氏
2016-05-18 16:56:37   From:全日本少林寺気功協会   コメント:0 クリック:

少林寺方丈(管長・住職) 釈永信氏が「小林功夫(カンフー)は武術禅」について語った。その第二弾。


方丈上香


「小林功夫(カンフー)は武術禅」②
 
少林寺方丈(管長・住職) 釈 永信氏
 
 
◆座禅と参禅のルーツは同じ
 
「参禅」は修行者が通る(経験する)「参究:分かるまで厳しく追究する」(反究内心:心の中を繰り返し追究する)・(覓究心性:性質を探し出す)の方法であり「明心見性(心迷わず自分の本性を見出す)」まで達するためにある。現在、私達が通常行う参禅と座禅は同じところからきている。
実際、座禅は参禅のただ一つの方法という訳でもない。広義で言うなら、「明心見性」の行いまで、行きつければ全て「参禅」となる。即ち念仏を唱え・仏様を拝み・戒律を守る等、全て参禅なのである。
当然、私達、禅宗の参禅方法は活用面が広く、話題の中に入ったり・難しい問題に接したり、甚だしくは教義を打ち破るほどの気迫だったり、棍棒を用いたりする。
近年、浄慧法師が奨励している「生活禅」は、少林寺が提唱している「武術禅」でもある。本質から言えば、両方とも参禅の形をとっている。これらの方法は参禅の一つの具体的表現であり、最終的には「明心見性」へと目指している。
多くの人は参禅をするとき、何故座禅をするのだろうか。実際これは一つの伝統的習慣であり、昔の人の生活に関係があると思う。私達は現在、椅子やソファに座る習慣がある。既に、昔の人の生活習慣を想像することは難しい。
 
◆胡坐の姿は最も快適な姿勢
 
昔、冶煉金属が発明される前、斧・鋸・鑿はなかったので、椅子・橙(背もたれ無し)を作るのは容易でなかった。胡坐をかいて座ることは、当時最も快適な姿勢であったに違いない。
それで胡坐で座禅をするのは、探し求めた快適な姿勢の座禅であり、自然体でもあった。ご先祖の仏様は胡坐で参禅し説法をしたが、それでも古い習慣を続けていくのを止めたのである。
胡坐で参禅、即ち座禅であるが、仏教の特権という訳でもない。仏教が我が国に伝来する以前、道家(黄帝・老子・荘子の説を祖述した学派)も座禅をしていた。奥深い山にある禅林まで走り、座り、呼吸を整え、気を練った(調息煉気)。「荘子は座禅をし、現世・眼前の世界を忘れ無我の境地に入る」。実はこれもまた座禅である。
インドのヨガも座禅をする。しかも、座ることは極めて珍しい。座禅の姿勢はいろいろある。両脚組むもの、片脚だけ組むもの、または別の座り方もある。私はいつも話しているのだが、胡坐で座る姿は、人体科学からいうなら、身体には合理的で最も安定していて、最も快適な姿勢である。


千佛殿练功 
 
◆人は一旦座れば心は落ち着く
 
両脚を組むのに慣れているのなら、それが快適に感じる。片脚に慣れて、片脚を組むのが快適であると思うなら、それが片脚座禅である。あなたが片脚であれ両脚であれ、脚を組むのが難しいと感じれば、自分で快適だと感じる姿勢で座ればよいし、椅子に座って行うのもよい。
人は一旦座れば、それに連れて心は落ち着く。一つの原則のように、自分で快適に感じればそれでよい。快適になってこそ精神が統一し、呼吸も整う。勿論、どのような姿勢をとったとしても、腰がピーンと真っすぐになり、呼吸が整えば全身がほぐれるのである。
 ここで指摘したいのだが、仏教の座禅と道家やヨガの座禅とは別のものである。主に求めている目的は同じではない。仏教による座禅は日常の小賢しさを断ち切り、私達の大いなる智慧に光を放てる様に培ってくれる。
また、貪欲・不満・愚かさ、ついには生きていく中で煩悩の苦しみから脱け出すことも求める事ができる。道家の座禅は呼吸を整え気を練り、小周天大周天(小周天:任脈と督脈と繋がる。大周天:全身の十二正経の気が流れる、全身の気の流れ)の禅定を極め、最終目的は寿命を延ばし不老長寿となる。
インドのヨガに至っては、書物に依れば、体内にある「蛇力」と言われるようなものを呼び起こし、最後に至ってはある特別な能力を獲得するというが、あまり真実性はない。私達祖先の仏様も、これら全てを学んだが、人生には全く関係がないと思い、止めにした。

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