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創業50周年目前!ダイヤル・サービス㈱の今野由梨社長の波瀾万丈の人生
2016-07-22 20:50:33   From:篠原功   コメント:0 クリック:

たった7人で始めた電話相談がいつしか年間50万コールの希望に!創業50周年目前!ダイヤル・サービス㈱の今野由梨社長に波瀾万丈の人生を語ってもらった。


ダイヤル・サービス㈱代表取締役社長の今野由梨さん
  
創業50周年目前!ダイヤル・サービス㈱の今野由梨社長の波瀾万丈の人生
 
たった7人で始めた電話相談がいつしか年間50万コールの希望に
「これからも時代の変化が新しいサービスを生み続けていきます」
 
 日本が高度経済成長を驀進していた1971年。女性7人で無料電話相談を始めた。育児で悩む母親のための「赤ちゃん110番」だった。ボランティアで行った無料の育児相談が、電話回線がパンクするほどコールが殺到した。これが世界初の電話相談サービスとなった。以来、連鎖的にさまざまなサービスを生み出し、多くの企業に支持されるようになった。いまや年間50万コールに及び、希望のライフラインは30種類を超えた。このビジネスを今日の規模にまで拡大してきたのがダイヤル・サービス㈱の今野由梨社長だ。
 
◆いつしか孫文との不思議な縁に誘われて
 
 今野社長はつい最近、CCTV(中国中央電視台)の取材を2日間にわたって受け、中国との縁の深さを痛感したという。さらに昨年8月14日から今年11月にかけて孫文生誕150周年を記念してシンポジウム等、さまざまなイベントが開催されている。「学者でもない私が自分の意思や意図を超えて、孫文のイベントに関わることになりました。さらに最近、孫文とゆかりのある人と偶然出会う機会もあり、不思議なことだなと思っていました」と目を丸くした。
 孫文との不思議な縁(えにし)といえば、今野社長はこんな体験をしていた。2年前まで東京港区白金台のマンション(4F)に住んでいた。近くに植物園などもあり、大変気に入っており、終生ここに住もうと思っていた。ところが、ある時ふと一緒に暮らしている猫の一生に思いを馳せ、一つの決断をすることになった。
 「現在、一緒に暮らしている猫は、生まれてから一歩も自然の土を踏んでいません。それではあまりにも可哀想だなと思いました。そこで不動産会社に相談して『猫が幸せに暮らせるマンションを見つけてください』とお願いしたところ、最初に提案されたのがL字型の低層マンションの1階でした。窓を開けると庭で猫が遊べます。『ここに決めます!』と即断即決でした」
 しばらくするとマンションのオーナーと食事をする機会があり、「今野さんは孫文とどのような関係がありますか」と聞かれ、驚いたという。実は今野社長が決めたマンションの1階の部屋は100年前、孫文が住んでいたという。「私の部屋にだけ、地下室があり、外堀通りに向けて地下壕が掘られてありました。孫文とは全く関係がないと思っていましたが、私の意図とは別に知らず知らずのうちに孫文の世界に引き込まれていったのです」と語った。
 
◆孫文の「御霊」が語りかけてきて鋭敏に
 
 中国では1966年から1976年まで文化大革命が行われた。この文革の前に今野社長は何度もチベットを訪れた。当時、中国の人たちは人民服を着て、自転車で大通りを洪水のように走っていた。
 「足繁く中国を訪ねてきましたが、近年の凄まじい発展ぶりにいつも驚かされています。女性のファッションも流行に乗って華やかになり、世界各国の外車が競うように走っています。先日も瀋陽に行ってきましたが、多くの人が川岸にテントを張り、バーベキューを楽しんだり、ダンスやスポーツに興じていました。人々が何を願うかで、こんなに変われるものかと、ただただ驚くばかりです」
 孫文とゆかりのある人と話しをする機会を偶然得て、今野社長は「関心がなかったでは済まされない」と強く思うようになった。孫文が辛亥革命に奔走した20世紀は世界中で戦争の嵐が吹き荒れた。日中間でも不幸な戦争が行われ、孫文を支援し、親密だった日中関係を壊してしまった。日中関係が悪化するたびに孫文の叫びが聞こえてくるようでならないという。
 「マンションの周囲には孫文が住んでいた当時の森、庭石灯篭などが残っています。孫文はそんな風景の中で月を眺めながら、祖国に思いを馳せ、自分の人生のあるべき姿を固めたのでしょう。孫文のその思いをしっかりと受け止めなさいと、孫文の御霊が語りかけているようで、私も自然に鋭敏になります」
 今野社長は、北京大学や清華大学での講演や中国を牽引するトップリーダーたちとの交流で次のようなことを話すという。「お互いに国や学校の大人たちが刷り込んだ歴史観だけで判断してはいけないと思います。そのような考えだけで貴重な人生を過ごしてはもったいないですね。自分で思考する。直観的な魂で感じる。それらを大切にしなければいけないと思います。国づくりでもそのような感性を大切にしてください」


「大変でしたが、天に助けられた」と語る
 
◆9歳の時、アメリカ軍の空襲で九死に一生を得る
 
 今野社長は9歳で終戦を迎えた。当時、三重県桑名市に住んでいた。アメリカ軍は、その2週間前に歴史と文化の香りを放つ街を一夜にして焼き払った。
 「その時、気を失っていた私を見知らぬ人が背負って照源寺の『金龍桜』まで連れて行ってくれました。息を吹き返すと、その人は『ここにいればきっとご両親に会える』と告げました。やがてその人が告げた通り、両親が迎えにきてくれました。この時、死ななかったと思うと、今、2回目の人生を生きているような気がします。だから多く人たちの大切な命を奪ったアメリカを絶対許していません」
 アメリカに行くと、今野社長は「いつも他の国の罪のない人々の命を奪わないように」と訴える。それがミッションといつも決めているという。
 振り返れば1969年の日本初の「電話秘書サービス」TAS(テレホン・アンサリング・サービス)を始める前の1964年4月から翌年の10月までアメリカ最大規模のニューヨーク博覧会が開催された。博覧会には日本(1~3号館)も出展し、日本の魅力を最大限にPRした。
 この博覧会に今野社長はコンパニオンとして参加した。今野社長は東京の4年制大学を卒業していたが、就職することができなかった。「この時期、日本は男社会です。自分の意見をはっきり言う大学出の女は嫌われたからです」と振り返る。
 
◆創業日を決め、世界各地を回り見聞広げる
 
 ニューヨークで今野社長は大きなカルチャー・ショックを受けた。「知性、教養、優しさにあふれた人々、そして高度に発展した文化水準・経済規模。見るもの聞くもの、すべてが新鮮で驚くばかりです。さらに『日本はこんな国と戦争をしたのだ』という気持ちでいっぱいになりました」という。
 ニューヨークから帰国後も相変わらず職探しに追われていた。しかし、あるとき有名新聞社が発刊する月刊誌の仕事で声がかかった。今野社長は大学時代に大学新聞の編集長を経験していた。その経歴がものを言った。この月刊誌で今野社長は編集・校正をはじめ、執筆まで自由にやらせてもらった。
 やがてあるテレビ局のディレクターが面会を求めてきた。そしてルポ番組のレポーターとして採用され、「ニューヨークで活躍した経験があるのなら」と広報の仕事にも就き、どうにか安定した職を得た。
 しかし、職探しで苦労していたニューヨーク博覧会の数年前、ウエイトレス、コンパニオンなどのアルバイトで生活を繋ぎながら、「これでよいのか」という思いがいつも付いて回った。そこで「大学出の女性であるというだけで日本企業は閉め出す。ならば自分で起業しよう」と思い立った。ニューヨーク博覧会で得た報酬などをしっかり貯め、創業の日を1969年5月1日と決めた。
 そして創業までの10年間、世界各国を回り、見聞を広めた。ニューヨークで受けたカルチャー・ショックとともに、そのアメリカは自分が生まれ、育った日本をどう扱ったかという幼い頃の体験が脳裏から離れなかったからだ。そこで自分で実際に体験してみないと解らない。自分の国の言っていることが本当に100%正しいのかどうか判断しようということになった。「その結果、新しい時代を生きるための使命とは何か。知性を持つ人たちは何をすべきかを考えないといけないという結論に達しました」という。
 
◆「私たちのサービスが社会の課題解決で役立てば」
 
 1969年5月1日、10年前に決めた創業を日本初の「電話秘書サービス」TAS(テレホン・アンサリング・サービス)として立ち上げた。この起業に対して周囲は失笑・苦笑し、「どうせ1年ももたないだろう」と冷ややかに陰口をたたいた。
 そんな逆風の中、今野社長はビジネスを軌道に乗せるとともに、大学のホールを借りて、講演活動にも精を出した。聴講者のほとんどは外交官、大学教授、官僚、民間企業のトップなどだった。その聴講者に対して今野社長は全く飾らない本音を語り、耳の痛い苦言も呈した。講演が終わると、そんな人たちが「こういう話は初めて聞いた」「厳しい話だったが、心に響いた」という感想をもらした。
 中国では経済開発区、都市開発区、さらに高速道路、人造湖などを見せてもらった。最後の夜のパーティーで今野社長は「巨大な工場やビル群や高速道路はおカネがあれば作ることができます。かつて日本は経済発展ばかりに気を奪われ、それにどっぷり浸かり、おカネだけを追いかけ、失敗を繰り返してきた経験があります。さらに公害問題を引き起こし、それを子々孫々まで引きずっています。それをまだ完全に克服していません。日本は苦しみ、後悔、恥をどれだけ見せていますか。これをどうして教訓としないのですか」――今野社長は歯に衣着せぬ本音の感想を述べた。
 こんな感想に誰も反論してこないばかりか、「日本のお母さん!」とまで言って慕ってきた。しかし、今野社長は「皆さんはこれから国の発展や時代を担う人たちです。そんな人たちが『日本のお母さん!』などと絶対に言わないでください」と忠告した。
 今野社長のダイヤル・サービス㈱はあと2年で創業50周年を迎える。世界中、見渡しても女性が起こしたベンチャー企業が50周年を迎えたという事例はない。創業時には周囲からはさまざまな冷笑を浴びせられたが、たった7人で始めた会社は、いまや200人を超す陣容にまで発展してきた。
 「皆で手を取り合い、苦しくても頑張ろう!」と歯を食いしばって前進してきた。時には波風に翻弄されそうにもなった。倒産直前まで追い込まれたときは、逆に社員から叱咤激励された。いま、今野社長が掲げるテーマは少子高齢化、障害者、外国人、子ども、健康、環境などだ。それらの課題解決の一翼を担い『平和』な社会を実現することだという。最後に今野社長は「大変でしたが、天が応援してくれたのかな。私たちのサービスが社会に役立ってくれれば、こんなに嬉しいことはない」と微笑んだ。
 
 

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