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世界的建築家イオ・ミン・ペイ氏
2013-06-28 18:07:30   From:篠原功   コメント:0 クリック:

20世紀を代表する中国系アメリカ建築家イオ・ミン・ペイ氏 「MIHO MUSEUM」に「桃源郷」実現【リード文】 「MIHO MU...




20世紀を代表する中国系アメリカ建築家

イオ・ミン・ペイ氏

 「MIHO MUSEUM」に「桃源郷」実現

【リード文】
 「MIHO MUSEUM」の建築設計したのは世界的に知られるイオ・ミン・ペイ(I・M・Pei)氏。20世紀のアメリカを代表する中国系アメリカ人建築家。ルーブル美術館のガラスピラミッドを設計した建築家として有名だ。
                  
【本文】
 「MIHO MUSEUM」の設計テーマは「桃源郷」――唐の詩人・陶淵明の「桃花源記」にある仙境の楽園「桃源郷」の物語を信楽の地に実現した。構想・設計・建設に6年の歳月をかけたという。
 この建物の建築設計でイオ・ミン・ペイ氏は「日本の昔の建築家は、土地と建物、そして景観を調和させる。そういったフィーリングを持っていました。もちろん私は真似したくありせん。しかし、日本人の心、文化、伝統を尊重したいと強く思いました。自然の中に同化した建物の姿が非常に意識的にデザインした結果だということをわかってもらえると信じています」と語った。
 では、イオ・ミン・ペイ氏はどのような人物なのか――1917年4月27日、中華民国(現在の中国広東省)の広州市で、銀行員で後に中国銀行頭取を務めた父ツーイー・ペイと母リエン・クンの間に生まれた。ペイ家は蘇州で代々地主を務めてきた裕福な家庭だった。
 後に家族は上海のフランス租界で暮らし、イオ・ミン・ペイ氏も欧米の文化に親しみながら過ごした。一方で母の死後は祖父を通して中国の伝統文化にも親しんだ。このようにしてイオ・ミン・ペイ氏は東洋と西洋の二つの文化の間で多感な少年時代を過ごした。
  イオ・ミン・ペイ氏は香港の名門セント・ポール・カレッジを卒業後、上海のセント・ジョンズ・スクールへ進学。1935年、17歳の時に渡米し、ペンシルベニア大学建築学科に入学。その後、マサチューセッツ工科大学に編入した。初めは建築学ではなく工学を専攻したが、彼の才能を見抜いた学部長の強い勧めで、再び建築を学ぶこととなった。在学中はル・コルビュジェとフランク・ロイド・ライトに強い影響を受けた。
 1940年、マサチューセッツ工科大学を卒業。ヨーロッパ留学に向け奨学金を取得したが、当時のヨーロッパは第二次世界大戦の最中であったため、留学を断念。ストーン・アンド・ウェブスター社に製図工の職を得て働き始めた。

世界的な名声得たアジア系建築家
ルーブル美術館ピラミッドが有名

 1942年、中国人のアイリーン・ルーと結婚。アイリーンが在学していたハーバード大学大学院の教授の誘いで、イオ・ミン・ペイ氏も同校の修士課程に入学した。途中、休学を挟んで第二次世界大戦後の1946年にハーバード大学で建築学修士号を取得。グロピウスの設計事務所に勤務し、その後、同大学助教授を務めた。助教授を務めて2年程たった1948年、ウェッブ&ナップ社(ニューヨーク)で企業内建築家として働き始める。いくつかのプロジェクトを経てその実力を示した。その後もウェッブ&ナップ社建築部門の代表として多くの都市再開発を手がけた。1954年にアメリカ国籍を取得。1960年までウェッブ&ナップ社で働いた後、1965年に自身の建築設計事務所「I・M・.ペイ&パートナーズ」をニューヨークで設立する。
 1983年にプリツカー賞受賞。1989年には事務所名を「ペイ・コブ・フリード&パートナーズ」(Pei, Cobb, Free & Partners) に改称。事務所の代表からは退き、自ら選りすぐった仕事に専念している。1994年、中国の同済大学より、名誉博士号を授与されている。(参考資料「ウィキぺディア」)

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