中国語  日本語
ホーム > 中国 > 記事全文

中国の訪日留学生、勉学で国に恩返し
2018-07-12 12:34:56   From:チャイナネット   コメント:0 クリック:

改革開放以降、日本は中国人留学生から特に注目されてきた。日本学生支援機構の調査結果によると、2018年の日本における外国人留学生のうち、中国大陸からの学生が10万人を突破し、全体の40%を占めトップとなった。中国網の記者はこのほど、世代の異なる日本留学経験者3人を取材した。彼らの物語から時代の発展の脈動、愛国学生の心情を実感することができる。中国網(記者・呉瓊静)が伝えた。

 

 「ゼロからのスタート」を恐れぬ名門の子

 

 1960年代生まれの周牧之氏は88年に日本に留学した。現在は東京経済大学教授、対外経済貿易大学客員教授、中国科学院客員研究員。旧国家機械工業部での勤務歴を持ち、日本の国際開発センター主任研究員、財務省総合政策研究所客員研究員、米マサチューセッツ工科大学客員教授を歴任。

 

 周氏は改革開放から間もなく日本を留学した中国人だ。祖父は『暴風驟雨』で有名な作家、周立波だ。名門の子という栄光、公務員という安定した職業を持ちながら、周氏は日本留学でゼロからのスタートを選択した。ゼロから日本語を学び、さらには新たに経済学を専攻し、東京経済大学経済学博士号を取得した。周氏は笑い、「私は当時すでに機械学部で成果を手にしていたが、なぜ訪日を選択したのか理解できない人が多かった。私は自分が若く、ゼロからのスタートを恐れる必要はないと感じていた。他の人ができるのだから、私にできないはずがあるだろうか」と話した。

 

 周氏は日本での生活を振り返り、学費を稼ぐため高圧線を架設し、学校周辺で警備員として働き、さらにセブン-イレブンでアルバイトをしたと話した。日本語が上手ではなかったので、店はレジに立たせず商品陳列だけをさせていたという。周氏は今や日本経済界の風雲人物として、セブン-イレブンの社長からも賓客として招かれるようになった。

 

 周氏は日本で長期的に、産業・地域・都市・空間政策及び計画の研究と策定に従事している。「東京湾岸再開発計画」「東京臨海工業地帯開発計画」の策定に参与した。周氏はこれらの貴重な経験とトップクラスの国際チームを携えて帰国し、「吉林省地域総合開発計画調査」「江蘇省都市化発展戦略」「中国大都市群政策研究」「鎮江長山生態文明新城総合計画」など一連のプロジェクトを計画・実施した。周氏はチームを率い、2016年より国家発展改革委員会と「中国都市総合発展指標」叢書を出版している。本書は新発展理念を中心とする、中国初の権威性・総合性・操作可能性を一体化させた都市発展評価指標だ。今や国内都市化政策・計画の策定、人材育成計画が周氏の事業発展の重心になっている。

 

 周氏は、自身の留学時代と事業発展は、改革開放後の中国の都市化と時期的に呼応すると考えている。80年代前半に訪日した際に、中国の月給はまだ100元未満だったが、日本でアルバイトをすれば時給70−80元になった。今や中国は世界屈指の市場になり、各業界に無限の商機が潜んでいる。周氏は、中国は現在も依然として隣国に学ぶべき多くの部分があると考えている。若い留学生は日本で先進的な技術を学ぶほか、さらに日本の企業管理、社会ガバナンスなどの先進的な理念と貴重な経験を学ぶべきだという。


中日経済・貿易交流に尽力した早大卒業生

 

 80年代生まれの裴涛氏は2006−14年に日本で留学し、早稲田大学大学院環境・エネルギー研究科修士課程を修了した。現在は中国国際貿易促進委員会中日韓企業交流センターで勤務している。

 

 裴氏は学生時代、日本の明徳義塾高等学校の教員や学生と交流した。日本人との交流はこれが初めてだった。「この交流から深い印象を受け、高校から日本に留学することを考えた」裴氏はこの選択ができたのも、改革開放後の柔軟な海外留学制度のお陰と考えている。

 

 裴氏は日本で修士課程を修了するまで、早稲田大学中国留学人員友好連誼会会長を務めていた。名門校の人気の専攻を修め、日本で高給の仕事を見つけるのは難しくなかった。しかし裴氏はためらうことなく卒業後すぐに帰国し、中国国際貿易促進委員会中日韓企業交流センターに就職した。裴氏は次のように話した。帰国を選んだのは、外国にいると放浪しているようで落ち着かず、それから事業の発展という重要な理由もあった。日本の社会・経済発展は成熟期に入っており、日本で就職しても普通の会社員にしかなれなかっただろう。しかし帰国すれば異なる。経済規模の急成長、モデルチェンジ・アップグレードが、大きなチャンスを生んだ。私はよく中国の中小企業を集め訪日し、現地の企業と商談することがある。中国側の日本側への最大の需要は環境保護と介護で、特にその先進的な技術と管理方法となっている。日本の中小企業経営者も、中国市場を非常に重視している。私が今取り組んでいるのは、双方の需要を効果的にマッチングさせ、相互補完を促すことだ。

 

 日本留学の8年間で、中日関係は紆余曲折を経て、中日間の経済的なパワーバランスにも変化が生じた。中国のGDPは2010年に日本を追い抜き、2位になった。裴氏は「訪日したばかりの頃は物価が不慣れで、日本のいたるところが先進的と感じた。今や北京に戻ると、生活水準が東京とほとんど変わらないことに気づく。訪日留学生である私は、改革開放による経済成長の成果を実感している」と話した。

 

 裴氏は「留学生活から得た最大の収穫は、日本人のきめ細やかな働きぶりが骨の髄まで浸透したことだ。私はこれを、中国人の大胆な発想を実行に移す向上心あふれる精神と結びつけたい」と語った。裴氏は未来の活動計画について「創業は中国経済発展の新たな動力の一つだ。日本には多くの家族企業があり、若い継承者がいる。中国には多くの創業者がおり、彼らは創業の世代だ。中日両国の青少年ビジネスリーダーの交流促進に尽力したい」と述べた。

 

中日文化交流に身を捧げる音楽家

 

 田瀟氏は80年代生まれで、2014−17年に日本で留学した。洗足学園音楽大学電子オルガンコースの修士課程を修了し、同学院の首席演奏家の栄誉を授かった。現在は国内で創業し、オンライン・オフラインの音楽教師として、電子キーボードの編曲・創作・演奏を教えている。

 

 田氏は「日本の流行文化というと、初めに思い浮かぶのは日本のアニメ・マンガだろうが、実際にはJ-POPも日本文化に彩りを添える宝石だ。電子オルガンはポピュラー音楽を創作し演奏するための武器になる」と述べた。J-POPが好きなことから、田氏は中国で大学を卒業すると日本に渡り、電子オルガンの修士課程で学ぶことを選んだ。

 

 田氏のコースには当時、外国人留学生が2人しかおらず、他は全員が日本人だった。田氏は常人には想像もできないほどの努力によって、同コースで唯一「首席演奏家」に選ばれた卒業生となった。「諦めようと思ったこともあるが、頑張り抜くことができた」

 

 田氏は、国内の文化・音楽産業の発展チャンスは、日本では比較にならないほど多いと考えている。改革開放から40年が経ち、多くの国民の生活水準が向上し、精神文化の需要も日増しに拡大している。田氏は、日本の有名音楽家の窪田宏氏が中国で講演した際に通訳を担当し、現場を訪れた観客の数と熱意に驚かされたと振り返った。「電子オルガンの愛好家が今やこれほど多いとは思わなかった」田氏は、これは中国と海外の文化交流の広さと深さが非常に高い水準に達していることを意味するが、そのすべてが開放政策のお陰だと考えている。また文化産業の力強い発展、対外交流の頻繁化により、海外から帰国した音楽家は才能を発揮する環境を手にした。「この偉大なる時代に身を捧げ、文化を跨ぐ交流の使者になり、中国のポピュラー音楽の発展水準を高めるため貢献できることを幸運に思っている」

 

 これは改革開放から40年に渡る、世代の異なる3人の日本留学生の物語だ。中国の対外交流が日増しに密接になり、開放の扉が大きく開かれるに伴い、より多くの若い留学生が海外に進出し、学んだ知識を祖国に持ち帰り、改革開放の偉大なる楽曲のため生き生きとした楽譜を書き続けることだろう。


勤学报国:几代赴日留学生的共同选择

 

       中国网讯(记者吴琼静)改革开放以来,日本一直深受中国留学生青睐。据日本学生支援机构调查结果显示,2018年,在日本的海外留学生中,来自中国大陆的学生人数已突破10万大关,占总人数的40%,高居榜首。日前,中国网记者专访了三位不同年代的留日学子,从他们的故事,我们可以感受到时代发展的脉搏和爱国学子的情怀。

 

不怕从零开始的名门之后

 

周牧之,60后,88年赴日留学,日本东京经济大学教授、对外经济贸易大学客座教授、中国科学院特聘研究员。曾供职于原国家机械工业部,历任日本国际开发中心主任研究员、日本财务省财务综合政策研究所客座研究员、美国麻省理工学院客座教授。

 

      周牧之是改革开放后较早一批赴日的中国留学生,他的祖父是《暴风骤雨》的作者、著名作家周立波。尽管有着名门之后的光环和公务员的稳定身份,周牧之却选择了赴日留学,一切从零开始。他不仅从头学日语,还重新选择了经济学作为专业,最终拿下东京经济大学经济学博士学位。“很多人不理解为什么我当时在机械部已经干出一番成就了,还会选择来日本。我就觉得,我年轻,为什么要害怕从零开始呢?别人都可以,我为什么不能?”周牧之笑谈道。

 

       回忆起初到日本的生活,周牧之说,为了赚学费,他架过高压线,在学校周围做过警卫,还在便利店7-11里打过工。因为当时日语不好,店里不让他做收银,只能去上货。而现在,作为日本经济界的风云人物,周牧之已是7-11株式会社社长的座上宾。

 

        周牧之在日本长期从事产业、区域、城市和空间政策及规划的研究和制定工作,先后参与了“日本东京湾再开发规划”、“日本东京临海工业地带改造规划”的制定。带着这些宝贵的经验和顶级的国际团队,他回到了国内,先后组织和实施了 “吉林省地域综合开发计划调查” “江苏省城市化发展战略” “中国大城市群政策研究”“镇江长山生态文明新城综合规划”等一系列项目。2016年以来,周牧之带领团队与国家发改委联合推出《中国城市综合发展指标》系列丛书。该书以新发展理念为指引,是我国首个集权威性、综合性、可操作性为一体的城市发展评价指标。如今,参与国内城市化政策与规划的制定以及规划人才的培养已成为周牧之事业发展的重心。

 

       周牧之认为,自己的留学生涯和事业发展是跟改革开放之后中国城镇化进程的时间轴相呼应的。80年代初到日本时,国内的月工资还不到100块人民币,而当时在日本打工,时薪就达70-80人民币。现如今,中国已成为全世界首屈一指的市场,各行各业都孕育着无限商机。周牧之认为,中国目前依然有许多需要向邻国学习的地方。青年一代留学生不仅可以赴日学习先进技术,还更应当学习日本在企业管理、社会治理等方面的先进理念和宝贵经验。


致力于中日经贸交流的早大毕业生

 

裴涛,80后,于2006年至2014年赴日留学,早稻田大学环境科学与能源工程硕士专业毕业,现就职中国贸促会中日韩企业交流中心。

 

裴涛学生时代就接待过日本明德义塾高中的师生,这是他第一次接触到日本友人。“这次交流给我留下了很深的印象,也让我萌发了高中就去日本留学的念头。”裴涛认为,这个选择也得益于改革开放之后灵活的出国留学政策。

 

裴涛在日本念到硕士毕业,在此期间,他还担任早稻田大学中国留学人员友好联谊会会长。毕业于名校的热门专业,想在日本找一份高薪的工作并非难事。但是裴涛几乎没有犹豫,毕业后直接回国,进入中国贸促会中日韩企业交流中心工作。裴涛说,选择回国一方面是由于身处异国他乡,难免漂泊之感,更重要原因的还是事业上的发展。裴涛谈到,日本的社会和经济发展已经进入成熟期,在日本就业,可能只是一名普通白领,“但回国不一样,经济体量的快速增长和转型升级孕育着巨大的机遇”。裴涛表示,自己经常组织中国中小企业去日本和当地的企业进行对接洽谈。他认为,目前中方对日方需求最大的是在环保和养老领域,尤其是其先进的技术和管理方式;而日本中小企业家也非常看重中国市场。“我现在做的事情,就是把双方的需求有效对接,帮助‘联姻’,促成优势互补。”裴涛说。

 

在日本留学的八年,中日关系几经波折,中日之间的经济实力对比也在改变。从2010年开始,中国的GDP总量已超越日本,位居世界第二。裴涛说,刚去日本时,对物价很不适应,觉得日本处处都很先进,现在回到北京,发现生活水平跟东京几乎没有差异。作为赴日留学生,他真切感受到了改革开放带来的经济增长的成果。

 

裴涛表示,留学生涯给自己最大的收获,是将日本人严谨细致的做事风格融入了骨髓,“我希望将它同中国人敢想敢干的进取精神结合起来”,裴涛说。谈及未来的工作计划,裴涛称,创业是未来中国经济发展的新动能之一。日本有很多家族企业,他们有年轻的继承人,而中国有很多创业者,是“创一代”,裴涛希望致力于推动中日两国青年工商领袖的交流。

 

投身中日文化交流的电子管风琴音乐家

田潇,85后,2014年到2017年赴日留学,日本洗足学园音乐大学电子管风琴专业硕士毕业,获学院首席演奏家荣誉,现在国内创业,担任线上线下音乐教师,教授电子键盘的编曲、创作和演奏。

 

   田潇谈到,提到日本的流行文化,大家可能首先想到的是日本“动漫”,其实日本的流行音乐也是其文化桂冠上的一颗明珠,而“电子管风琴”(又称“双排键”)则可谓是创作和演奏流行音乐的“宝器”。正是出于对日本流行音乐的喜爱,田潇在国内本科毕业之后选择了赴日进修,攻读“电子管风琴”专业硕士。

 

田潇的专业,当时一共只有两名外国留学生,其余全是日本学生。但他却成为了该专业唯一一名获得“首席演奏家”殊荣的毕业生,靠的是常人无法想象地辛勤付出。“一度也曾累得想放弃,但最终还是坚持下来了”,田潇回忆道。


       在田潇看来,国内的文化和音乐产业的发展机遇,是目前的日本不可比拟的。改革开放至今40年,广大百姓随着生活水平的提高,对精神文化方面的需求也日益增长。田潇回忆道,有一次日本音乐大师窪田宏来国内演讲,自己为其担任翻译,被到场观众的数量和热情给惊呆了:“没想到现在电子管风琴的爱好者已经如此多了。”田潇认为,这说明中外文化交流的广度和深度都已经达到相当高的水平,而这一切都离不开开放的政策。与此同时,文化产业的蓬勃发展和对外交流的日益频繁,也给海归音乐家提供了施展才华的沃土,“我很庆幸能投身于这个伟大的时代,做跨文化交流的使者,为提升中国流行音乐的发展水平贡献一份力量。”

 

这是改革开放40年三代留日学子的故事。随着我国对外交往日益密切,开放的大门也将越开越大,相信未来会有更多的青年留学生走出去,将所学知识带回祖国,为改革开放的宏伟乐章继续谱写灵动的音符。

熱に関連する単語の検索:中国 留学生

前の記事:中独の協力強化、貿易戦争とは真逆の手本に
次の記事:「中朝友好協力互助条約」から57年、記念式典実施

分享到: 收藏