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詩人黄瀛と中日文学交流
2016-05-12 12:49:31   From:中国網日本語版   コメント:0 クリック:

法政大学教授 王敏

黄瀛(こう・えい/ファン・イン、1906-2005)は中国人の父と日本人の母の間に生まれた。両親とも教育者という血筋を受け、黄瀛自身も教育者として後半生は全うした。98歳の生涯は波乱に満ち、生涯の半ばが戦争の期間に含まれる。中国と日本の混血児として苦しみをかかえつつ中国への愛国を通した信念は胸を打つものがある。

父は10歳までに亡くし、妹とともに幼少年期は日本で育つ。15歳から20歳代後半まで、日本詩壇に彗星のごとく登場した。月刊『日本詩人』2月号(1925年)新詩人号の1位に推され、華やかなデビューを果たしたのは19歳のとき。1920-1930年代は『銅鑼』『詩と詩論』『詩神』『詩人時代』などに相次いで寄稿し続けている。語韻上の音感、新鮮な言葉遣いと異国趣味をもって日本近代詩に新風を吹き込んで、口語詩の可能性を切り開いたとみなされたのである。詩集を2冊上梓している。第1詩集『景星』(1930年)、第2詩集『瑞枝』(1934年)であり、日中間の戦争がなければ詩人の道は豊かに花開いたことであろう。

詩作と並行して日本の文芸各誌に中国新文学の現状と動向を紹介し、代表的な詩人として郭沫若、馮乃超、王独清、朱自清などの漢詩を翻訳して紹介するなど中日詩壇の架け橋の役割を果たして功績も見逃せない。

この時期、宮沢賢治と交流をしている。1929年、黄瀛が岩手県花巻を訪れる機会があり、わざわざ病床の賢治を見舞ったのである。まだ無名であった賢治を訪ねたのは賢治の詩にひかれていたからであり、詩人としての黄瀛の面目躍如かもしれない。賢治の詩の印象について「彼の詩は美しい。詩を読めば彼のだとすぐにわかる」。こう言っていた。黄瀛は生前の賢治に会った唯一の中国文人という事実を得ているのは確かである。

 

黄瀛は26歳のころ帰国し、1978年1月に四川外国語学院日本語学部に就任、1981年3月に教授。高等教育の復興を目指した鄧小平の指示による文革後、最初の日本文学を専攻できる大学院であった。当時は、日本文学を講義できる中国人の黄瀛は希少な存在。日本語学部生と院生をかけもち、日本近代文学史、日本近代詩史、日本文学作品鑑賞などの講義を担当し、卒論の指導に当たった。

日本語教育レベルの向上を図って、黄瀛は自ら若手教師向けの特別講座を設け、若手教師の育成に力を傾けた。日本の原版図書がなかなか見られない1980年代に自分の研究室を図書室と日本語サロンにして、日本の昔の友人から寄贈された本を教師にも学生にも公開していた。また、日本における詩壇活躍時代の知名度が半世紀も過ぎても残り、明晰な教え子が日本各地の大学に留学・研修できるよう推薦を重ねた。留学の夢を果たした教え子たちは20余人で、いま重慶と成都をはじめ、おもに中国西南部の大学で日本語教育の柱となっている。

晩年の黄瀛は中国日本文学研究会顧問と重慶市翻訳学会顧問を務め、宮沢賢治、川端康成、横光利一、三島由紀夫、大江健三郎、梶井基次郎などの作品を高く評価し、日本文学の紹介と翻訳を呼びかけた。黄瀛の影響を受け、日本文学の翻訳と研究を志した研究者が多く育成されたいた。

半世紀もの中断がありながら黄瀛は交流した日本文学者との友情を信じた。中日関係の激しい起伏にめげず、魯迅ら帰国留学生とも交流を重ねて友好の必要性と民間交流の重要性を訴え、両国の相互理解を唱えた。文明の衝突が多発している今日、重大なヒントを与えているものと思われる。

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